【教育シンポジウム】調布市の障害者理解教育の推進

調布市教育委員会主催の教育シンポジウム「調布市の障害者理解教育の推進」に出席しました。(当日の資料

調布市教育委員会の取組みについて説明があった後、市内の小学校の3つの事例が紹介されました。特別支援学級との交流・共同学習や、復籍制度を利用した特別支援学校と通常学校の交流など、同じ校区内に住居があるにもかかわらず、日常生活の中で接点をもつことが難しい子どもたちがじかに触れ合う時間をもつことで、「知る」こと、そして「理解」することにつながることがよく伝わってきました。

現在、調布市では、市内の小学校20校のうち、6校にしか特別支援学級がありません。そのため、居住地域にある小学校に通うことができる障がいのある子どもはほんの一部です。通常学級に通う子どもたちにとっても、身近にいる配慮を必要とした仲間との接点をもつ機会が少ないため、この点は、調布市における障がい者理解の推進には大きなハードルとなっています。知人が小学校教員を務めている南房総市では、市内の全学校に特別支援学級があり、障がいの有無に関わらず、子どもたちは居住地域の学校に通っているということです。調布市は課題を認識しながらも、改善に向けての取り組みに着手していませんが、今後インクルーシブ教育を進めていく上で、避けて通ることのできない課題だと思います。

後半は、川崎WSC(川崎市で活動中の車椅子バスケットボールチーム)の選手のお話を伺いました。とても印象的だったのは、「(生活上で)特に大変なことはない」「大切なのは、困っていたら助けるということで、それは障害の有無とは関係がないこと」という言葉でした。

お一人の選手が、コンビニでほしいものが高いところにあって手が届かなかったので、そこにいた人に取ってもらった、とおっしゃいました。確かに面倒かもしれませんが、手伝ってもらわないと高いところの商品が取れないのは、小さな子どもも同じです。でも、子どもの背が低いことを私たちは「障がい」とは呼びません。たとえ歩けなくても、目がまったく見えなくても、必要なサポートがすべて受けられて、生活に何の支障もないのであれば、もはや歩けないことも目が見えないことも障がいではないのです。

「障がい」と言われるものも、それぞれの人の個性であり、当然、その形や程度はさまざまです。その個性や特性が「障がい」となるかどうかは、その人が生活の中で困る場面がどのくらいあるか、つまり、その人が置かれた環境がその人の生活にどれだけ障害を作ってしまっているかで決まります。

司会者が最初のあいさつの中で、「障がい者理解という言葉そのものがなくなることが、本当の相互理解に基づいた共生社会の実現と言える」ということを言っていました。本当にその通りだと思います。私たちは、障がいのある人とない人に分けられているのではないけれど、ある特性をもつ人々に対する配慮が社会の中に欠けているために、障がい者というカテゴリーに入れられてしまう人々がいることを知り、垣根を取り払う努力を続けなければいけません。

さて、今回のシンポジウムでも報告があった通り、一部の学校では、交流を通して障がい者理解の推進に努めています。その一方で、今の学校という環境が発達障害児を生み出しているという指摘があります。問われているのは、私たち大人が作っている社会の姿であり、学校の姿ではないでしょうか。