阪神淡路大震災から25年~被災者の一人として思うこと

【阪神淡路大震災から25年】
~被災者の一人として思うこと~
 
あの日から25年が経ちました。政治家という立場になって初めての1月17日に、私は何を発信すべきか?ということを考えました。でも、結局のところ、毎年この日になると直面する、<被災者の一人として、私は何を(どのような教訓を)発信すれば良いか>という問題にぶつかっているように思います。
  
一つ言えるのは、25年経った今日も、あの日を思い出すと視点が定まらなくなり、手が震えてじんわりと汗が出てきて、涙が出そうになること、震災関連の番組は見られないことは変わらないということでしょうか。25年目という節目ということもあり、けじめとして特集番組は見られるように録画予約はしましたが、しばらくは見られないと思います。毎年こういう自分に直面する時、何をもって「復興」と言えば良いのだろうと考えさせられます。
 
被災者の体験は、同じ家の中で寝ていた家族一人一人でも全く異なっており、それはどの災害をとっても同じことが言えます。今朝、朝日新聞で、当時をスマホに再現するという特集がありました。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。
  
震災の疑似体験は私にとっては恐怖心を蘇らせることであり、そこに何かポジティブな動機や目的を見出すことは容易なことではありません。でも、災害を経験していない人にとっては、疑似体験を通して感じる現実味を帯びた一種の恐怖心が「切羽詰まった感」につながり、災害への備えに着手するきっかけになるのかもしれません。

そうだとすると、私の個人的な体験を公にすることにも意味があると言えるかもしれない、と思いました。
  
そこで、公人になって初めての1月17日の今日は、思い出すままに、震災当日からの出来事をつづってみることにしました。時間的感覚も感情も「被災者モード」のスイッチが入っていて通常とは違っていましたので、不正確なところもあるかもしれません。何か自分の体験をきれいな教訓にまとめてお示しするつもりもありません。さらっと読み流していただいて、被災するということがどういうことなのか、ほんの少し疑似体験をしていただければ、何かのお役に立てるかもしれません。

当時私は、卒業を数か月後に控えた大学4回生でした。
  
5:46
家庭の事情で父の書斎に布団を敷いて寝ていたところ、ゴー!という音が迫ってきて激しく揺すぶられる。バラバラ…という音がして、天井まである本棚から頭の上にも体の上にも本が落ちてきた。風邪気味で布団を深めにかぶっていたのと、揺れと一緒に体が頭の先まで掛け布団の中に押しやられたことで、直撃は免れることができた。後で見たら、頭の先にあった本棚は、私の体に向かった倒れ、壁と柱の5ミリほどの段差に引っかかって止まっていた。不幸中の幸いだった。
  
体の上に積み重なった本の重さで動けず、息が苦しくなってきて、「このまま死ぬのかも」と思ったが、次の瞬間に「死にたくない!」と思い、必死で膝を立て、足の力で体を押し上げて布団から脱出。隣りの部屋で寝ていた中3の妹が無事なのを確認して、一緒に隣りの部屋の両親のところに行く。テレビセットの上から大型テレビが落ちてきたようで、父が足から血を流していたが、驚きのあまり痛みを感じていないようだった。
  
下の階の部屋で寝ていた高2の妹が、「たんすの下敷きになって動けない」と言っているのが聞こえてくる。真っ暗な中、階段を降りようとするが、階段の壁が傾いているのか、階段が狭くなっていて、通れるか分からない。「頑張って」と声をかけていたら、「出られた!」との返事。
  
ふと、上ってきたオレンジ色の太陽が窓に映るのが見えて、一瞬火が出たかと恐怖を感じたが、朝日だと分かってホッとした。いつもなら母が起きて石油ストーブをつけていた時間だったが、たまたま寝坊をして火をつけていなかったのは、不幸中の幸いだった、と後で母が言っていた。
  
何が起きたのか、外はどうなっているのかと、父がデスクに乗り、窓から外を覗いている。大きな余震が続いていたので、危ないから下りるように言うが、聞かない。と、前を通りがかった男性が声をかけてきた。「暗くてよく見えないんです」と父が言うと、倒れて家にもたれかかっていた電柱を上ってきて、懐中電灯を貸してくださった。一階に妹が一人でいることを伝えると、どうやら、玄関に向かって家が傾いていたらしい。「ドアは開けられないので、外から部屋の窓を割りますよ!」と言って窓を割り、妹を助け出してくださった。
  
2階にいた私たち4人は、母のたんすから着られるものを引っ張り出して着込み、壁がせまってきている階段を恐る恐る下りた。薄暗くてよく見えないが、壁の傾きが変で、やはり玄関のドアは開けられなさそうだ。揺れで部屋の外に飛び出しかけていたグランドピアノの上を乗り越えて妹の部屋に入り、外から割ってもらった窓から外に脱出した。割れたガラスを踏まないように、妹が使っていた毛布を敷いてくださっていたように記憶している。先に助け出してもらっていた妹は、飼っていた犬を玄関前から助け出し、道に座り込んで大声で泣いていた。時間にして何分くらいだったのか分からないが、一人でよほど怖かったのだろう。この後、妹は避難した祖父母の家から出られなくなった。
  
懐中電灯を貸してくださった方は、近くの自治会で活動している方だった。ご自身の家もご両親が寝ている1階がつぶれてしまい、下敷きになっているのだが、反応もなく、助け出す術もないので、あきらめて近隣の様子を見回っていたところだということだった。お名前も、どの地域の方かも分からないままで、ちゃんとお礼も言えなかったのが悔やまれる。
  
お向かいの家の男性が外に出ていて、見てみると1階が完全につぶれている。1階で寝ていたご両親は下敷きになっていて、「もうどうしようもない」と言っている。時々顔を合わせると挨拶を交わしていた老夫婦だったが、その日のうちに遺体が運び出された。即死だったらしい。隣りのご婦人が助けを求めている声が聞こえる、と、集まっていた人が助けに行き始めた。父も行こうとするが、靴を履いていない。どこからともなく女性が「これを履いて」と私たち全員にスリッパをくださった。ふと見ると、近所の知人の女性が、顔に少しかすり傷を負って立っている。母が声をかけるが、ショックで呆然として話せない状態になっていた。
  
そうこうしているうちに、どう見ても自宅が傾いてきている。父が「自転車をどけておこう」と取りに行く。「危ないからやめて」と言ったが、「もったいない」と言って取りに行ってしまった。「すぐ近くの神社で焚火を始めたので、良かったら暖を取りに行ってください」と声がかかったので、これはありがたいと家族で向かうが、向かう途中で、「近くでガス漏れが起きているという情報が入ったので、慌てて消している」ということで引き返し、徒歩3分のところに仮住まいしていた従妹たちの建物を確認してから、徒歩5分のところに住んでいる祖父母の安否を確かめに行くことにした。
  
家から1本東側のところで、JRの高架が落ちて道を塞いでいる。あの「ゴー!ガタガタガタ…」という音の中に、この高架が落ちた時の音も混じっていたのだろうか?などと思いながら通り過ぎた。
  
従妹たちが住んでいたプレハブは無事だった。後で、重い瓦屋根の乗っている家の方が倒壊が多かったことを知った。水道管が破裂したようで、道路から水が噴き出している。山手幹線を渡ろうとしたところ、信号は消えていて、道路の真ん中で交通整備をしている男性がいる。ブロック塀がそのまま倒れて道を半分塞いでいるところもある。道が凸凹で、スリッパでは歩きにくい。上半身はパジャマの上に母のニットスーツ、下はパジャマのズボンにスリッパ、という格好でいつも登校時に通る道を歩いているのが、ふと可笑しくなった。
  
 山手幹線を北へ渡った途端、被害がほとんどなく、町が綺麗なことに気づく。祖父母の家も無事で、食器が割れたのと、壁に少し亀裂が入った程度だった。電気がすぐに復帰したので、テレビをつけ、大きな地震だったことを知る。お向かいの老婦人が井戸水を沸かして淹れたお茶を水筒に入れて持ってきてくださる。温かいお茶が体に染み渡った。この日から7か月、祖父母の家に家族で過ごすことになった。
  
8:00くらい?
自宅がどうなったか見てくる、と両親が出かけていった。1時間ほど経ったころか、近所の知人親子が、台車に荷物を積んで祖父母の家まで届けてくれた。その時、自宅の1階部分が完全につぶれたことを知らされた。(中央奥の白い壁の家。手前の家も全壊。活断層が下を走っていたようで、結局、この一区画で無事だった家は1軒のみだった。)目の前でバリバリと音を立てて自宅が崩れるのを見た母は、その場で腰を抜かして泣き崩れたらしい。最初の揺れから完全に壊れるまで3時間半ほどかかったことになる。これも不幸中の幸いだった。
  
ここから毎日、壊れた自宅に通っては、中の物を取り出し、祖父母の家に運ぶ生活が始まった。父は仕事上の重要書類、私は2週間後に締切が迫っていた卒業論文が入っているコンピュータをまず取り出した。次に、冷蔵庫の中身などキッチンのもの。買いだめしていた食料が冷凍庫からそのまま出てきた時は、これでしばらく食いつなげそうだと安堵した。2階のベランダが膝をつくように地面についているので、そこから出入りして中に入る。床は大きく傾いていて、さっきまで寝ていた部屋はめちゃくちゃな状態で、何から取り出せばいいか分からない。「形あるものの空しさ」を思い知らされた中で、必要な物、大切な物を選り分けるのは難しかった。
  
夕方、大学の学報に掲載されることになっていた部活の紹介原稿の締め切りだったことに気づき、今日は提出できないことを連絡するために駅前の公衆電話に行くが、すでにコインが詰まっていて使えない状態だった。後で分かったことだが、大学も屋根が落ちていた。被害総額52億円のうち半分は国から補助が出たが、女子大だったこともあり、残りの26億円をまかなう寄付金を集めるのはかなり苦労していた。
  
キャンパス内の家で被災した外国人教授は、「全員に単位をあげる」と言い残して、母国に帰ってしまった。他にもそういう対応をした教員が複数いたため、卒業できないと思っていたのに卒業しちゃった、というような笑い話も後で聞いた。大学の授業はすべて休講になった。たった一人、課題を課した教授がいて、ミルトンの『失楽園』についてペーパーを書かなければいけなかったが、地獄絵図のような光景を目の前に、エデンの園についてペーパーは書けないと思い、単位を諦めた。
  
夜。外が静かになったせいか、余震のゴー!という音がよく聞こえる。いつでも逃げ出せるように、靴をはいたまま、みんなで固まって寝るが、誰も眠りにつくことができない。結局、頻繁に襲ってくる余震が恐ろしくて、ほとんど眠ることはできなかった。
  
数日後からだったのか覚えていないが、テレビで亡くなった方の名前が公表され始めた。知人がいないことを願いながら、無表情のまま食い入るように見続けた。何日経ったころだったか、下の妹の後輩(当時中2)の女の子の名前を見つけた。父親は病気で亡くなったところだった。聞いた話によると、家が全壊し、お母さんとその子が生き埋めになっているところに火が回ってきてしまった。お兄ちゃんとお姉ちゃんが必死で助けようとし、近所の人もバケツリレーで消火活動をしたが間に合わず…。そこにいるのが分かっているのに助けることができず、生き残った二人は錯乱状態だったということだった。
  
真ん中の妹は私立高校に通っていたが、授業が再開した後も、電車が止まっていて通えなかったのと、ショックで家から出られなくなっていたので休んでいた。学校では、連絡が取れないので、友だちは妹が死んでしまったと思って泣いていたらしい。今ならスマホで安否の確認はもっと簡単にできるだろう。下の妹の友人たちも、妹が死んでしまったのではないかと心配したと聞いたので、家を見た人が誤解をしないようにと、全壊した家の壁に「全員無事」の張り紙をした。
  
毎日、自宅からものを取り出しに通う。行き来の途中にあるお店の方が、「頑張って」と声をかけてくださる。途中の道も歩道のブロックが割れて盛り上がったりしているし、建物もあちこちで傾いているので、平衡感覚がおかしくなりそうだった。中には3階部分だけがつぶれているマンションもある。どこかから届いた、古着の詰まった袋から着られそうなものを選んで身に着け、足元はスニーカー、大きなマスクに軍手という、「被災者ルック」で作業をして、頭から埃をかぶったまま寝て、また次の日も作業をした。
  
水は自衛隊が近くに届けに来てくれたので、容器を持って行って入れてもらった。近所に一人住まいの高齢の女性がいたので、家まで運ぶのを手伝った。マンション住まいで上の方の階に住んでいる人は、容器がバケツしかないと、部屋にたどり着く頃には半分以上こぼれてしまう、という話も聞いたので、非常時に水を入れる容器はあった方がいい。祖父母の家では、たまたま前の夜にお風呂のお湯を残していたので、トイレを流すのに相当長い間使うことができた。
  
3週間くらい経った頃だったか?ある政党がバスで有馬温泉に連れて行ってくれるらしい、という情報が入ってきた。祖父母の家の近くから出発するというので、妹と母にも声をかけて参加することにした。途中の乗り場で、乗り場に向かう途中でお連れ合いとはぐれてしまったという高齢の女性がいた。「連れ合いはおそらく家に戻ってしまっていると思う、家はすぐそこなので、そこまで行って拾って行ってほしい」と頼んでいる。すると、前の乗り場で乗って座っていた中年の女性が怒り始めた。どうやら、自宅が全壊して避難所生活を送っているらしい。「時間はもったいないし、(地域からして)絶対に家は壊れていないはずだ、そんな人を乗せていく必要はない」と怒鳴っている。結局家まで迎えに行くことになったが、老夫婦の家が無事であることがわかると、その女性はますます激しくののしり始めた。私も家は全壊したけれど、家族は無事だったし、祖父母の家に居候できている。このことは恵まれていることなのだと改めて思った。
  
有馬温泉に到着し、何週間かはいたままだった靴下を脱いだ。湯舟につかってしばらくすると、足の裏が何か変な感触なので見たら、表面が白っぽくなってブヨブヨしている。何だろう?と思って触ったら、ペロリと足の裏全体の皮が1枚めくれた。こんな状態になっても、人間って生きていられるのだな、どうして毎日お風呂になんて入っていたのだろう?と思った。普通の日常はもう遠い世界のことになっていた。
  
ある日、斜めに大きく傾いた2階部分の部屋で作業をしていると、ヒョイと男性が中を覗いてきた。何かしたいと思って神戸まで来てくださったらしく、「何かお手伝いできることはありませんか?」と言われたが、何を手伝ってもらえば良いかわからない。軍手はいりますか?というので、ありがたく譲っていただいた。買い物ができる店がないため、救援物資だけでしのいでいたので助かったが、もう少し話しても良かったなと今は思う。
  
京都で下宿していた親友が、大きな卓上用の電気鍋とビタミン剤をリュックに入れて、京都からかついで持ってきてくれた。なぜビタミン剤?と思ったが、近くの教会に届けられる救援物資のコンビニ弁当やレトルトのスープばかり食べていた私たちは、確実にビタミン不足やミネラル不足に陥っていた。体重はどんどん増えたが、ちょっとしたかすり傷が治らずにジュクジュクになった。3月半ばの大学の卒業式で撮った写真を見ると、顔が腫れぼったい感じにむくんでいる。親友と生きて再会できたことを喜ぶなんてことが起きるなんてね、と言いながらお互いの無事を喜んだ。親友の家は神戸の山の手にあり、地滑りが起きたため、家そのものは壊れていないが、診断は全壊だと言っていた。床にビー玉を置かないと傾いていることには気づかない程度の傾きだけれど、お風呂に入る時だけは湯舟とお湯が平行にならないので気持ち悪い、と言っていた。
  
水道が復旧し、カセットコンロや大きな懐中電灯、冬用の上着、スニーカー、水のいらないシャンプーなど、救援物資が届くにつれ、時々は家でもお風呂に入れるようになった。お風呂に半分くらい水を張り、カセットコンロで大鍋に熱湯を沸かしては、それを足して温める。冷えた体を入れるとぬるくなってしまうので、何度もそれを繰り返して、家族7人が順に入った。水のいらないシャンプーはあまり快適ではなかったが、夏ならもっと使ったかもしれない。電気はすぐに復旧したが、ガスが復旧したのは春も近くなっていたように思う。
  
ある朝、妹が泣きながら起こしに来た。「お姉ちゃん、クルミが死んじゃった」と言って泣いている。飼っていた犬が小屋の中で死んでしまっていた。まだ7歳だった。
  
震災後、恐怖心やショックはあったが、どうしても涙が出なかった。きっとまともに反応が感情に出たらコントロールが効かなくなってしまうから、体が防衛本能を働かせていたのだと思う。クルミは外飼いの犬だったけれど、余震もあるし、できるだけ家族の近くに置いてやりたかったのだが、場所がなかったので、隣りの叔父の家のガレージに置かせてもらっていた。ある日、どうやってロープを切ったのか、クルミがいなくなっていた。「もしかして」と半信半疑に思いながら、全壊した家を見に行ったら、自分の小屋が置いてあった、一番家の下敷きになっているところのにおいを一生懸命嗅いでいるクルミがいた。途中、信号のある山手幹線を渡らないといけないのに、どうやって無事にたどり着いたのか分からないけれど、帰りたかったのだろう。クルミに「ごめんね」と言った瞬間に、初めて涙が出た。私が無意識に押し殺していた色々な感情を、クルミが代弁してくれたのかなと思う。
  
クルミは、突然の引っ越しと地震への恐怖で相当のストレスを溜めていたのだろう。荷物の運び出しなど、人間の生活で精一杯で何もケアをしてやることができず、ただただあの極限状態の中で自分の無力さを見せつけられた思いで、保健所の人が引き取っていく小さな亡骸を呆然と見送った。
  
感情が麻痺した状態はかなり長い間続いた。作業中に撮った当時の写真を見てみると、壊れた家の上に立って笑ってVサインをしている。
  
全壊した家の解体の順番が春ごろにやっと回ってきて、いよいよ解体される日。いつも行き帰りに声をかけてくれる女性に、「これから解体なんです」と言ったら、「涙出ちゃうよ、きっと」と言って、その方が泣き始めたけれど、私は笑っていた。
  
この後、春には大学院に進学したが、阪急電車がまだ開通していなかったので、先輩の車に乗せてもらったり、代替バスで近くの駅まで行って通った。そのうちに電車が開通したが、久しぶりに乗った電車が走り始めに「ガタンガタン」と揺れたのを地震だと勘違いして、座席の手すりにしがみついた。「ガタン」という揺れがあの巨大な揺れの記憶を呼び覚まして、一連の出来事が頭の中を駆け巡り、体が硬直する、ということがその後も続いた。
  
さて、春ごろに、ある海外旅行の話が持ち上がり、学生リーダーを募集しているという情報が知人から届いた。あるNGOの責任者に社会奉仕団体から多額の寄付金が送られ、その使い道として、ロサンゼルスに被災地の中高生を連れて行き、1年前の同じ1月17日に大地震に見舞われたノースリッジの子どもたちと交流させるプロジェクト「Kobeからロサンゼルスへ : 日米被災地を結ぶ中高生ともだちの旅」が立ち上がったということだった。私もリーダーに応募し、YMCAのキャンプリーダーや関西学院大学のボランティアチーム、教会関係者などから集められた12名ほどのリーダーと本部メンバーで90名の中高生をロスに連れて行くことになった。
  
私の印象としては、参加した子どもたちも、大人も、驚くほど震災の経験を語らなかった。言葉の問題もあったと思うが、先にも書いたように、同じ震災を経験していても、同じ家の中にいた家族でさえ、その瞬間の経験はまったく異なっていた。そして、その経験を語り合ったとしても、「分かる、分かる」「そうだよね」などと簡単な言葉で共感を示したり、共感を得たという実感ができるレベルのものではなかったと思う。参加者120名ほどの中には、実のお姉さんを亡くした中1の男の子もいれば、家も家族も近隣の地域も無事だった人もいた。よく考えてみると、PTSDという言葉が頻繁に聞かれるようになったのは、阪神淡路大震災がきっかけだったように思う。まだ衝撃的な体験がその後の人の心に及ぼす影響については、多くのことが共通認識されていなかったのではないかと思う。今なら、もう少し違うプロジェクトができるのではないだろうか。
  
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まだまだ書けることはありますが、これで終わりにしたいと思います。震災の前日、私はギルバート・オサリバンのお気に入りのCDを1階のキッチンで聞きながら卒論を書いていました。当然のことながら、そのCDは片づけの時にも出てきませんでした。その後いつでも買いなおすことはできたのだけれど、なぜかその気になれずに25年が経過したことになります。
  
災害そのものは時間的に長くはないけれど、その瞬間に始まる<非日常>は、いつ終わりがくるのか保障がないまま、<日常>となって続きます。そして、たとえガスや電気が復旧して一定の日常が取り戻せても、人間の心はそう簡単には追いつかないのが現実です。むしろ、生活に必要なものが整えられていくにつれ、まったく整わない自分の精神状態を実感させられることもありました。「そんな経験をしたのなら、強くなったことでしょう」と言われることがありますが、むしろ人間の弱さ、日常のもろさを思い知らされた、という方が実感に近いように思います。ただ時間が経過しただけで、何かを乗り越えたという実感はありません。色々と取り繕ったり、何か教訓めいたことをお伝えするフレーズも考えられなくはないのですが、実感が伴わない言葉は意味がありません。
  
今日は、被災するということをできるだけありのままに伝えることが、被災者の一人としてできることの一つではないかと思い、25年目の節目につらつらと書きました。被災するということがどういうことなのか、少し想像していただき、これから起こり得る災害に対する心構えを含めた備えに役立てていただければと思います。